日本の乗用車「スカイライン」とイタリアのカロッツェリア・デザイン「ミケロッティ」が60年初めて結びつき、美しいスポーツカーが生まれた! パールスカイブルーの「コンバーチブル」、地中海ブルーの「クーペ」は第42回トリノ自動車ショーに日本から初めて出品され、欧米のマスコミに「日本のクルマがキモノを脱いでイタリアのドレスをつけて出品された」と紹介された。
  イタリア職人の指導を受け、ハンドメイドボディ、総皮張り室内の市販車は2年後に発売。国産車として初150km/hをマークし、200万円近い超高価格(スカイラインデラックスが68万円)のスポーツカーは、わずか60台がつくられたのみであった。そのうちコンバーチブルは25台の生産といわれる。

1960年にイタリアのトリノで開催されたモーターショーに、見慣れぬ日本製のクルマが展示されて人々の注目を集めた。カロッツェリアのミケロッテイが、発表間もないプリンスグロリアのシャーシー、コンホーネンツを使って造り上げた。スカイラインスポーツのブロドタイプだったのである。エンジンは多少チューンアップされ、標準型のものよりはいくらかパワーアップされてはいたが、巨匠ジョヴァンニ・ミケロッテイを悩ませたのは、絶対的に腰高なスカイラインのシャンーだったという。コンヴァーティブルとクーペの2台が造られ、翌1961年の東京モーターショーに展示された後1962年4月から少数ながら市販に移された。価格はコンヴァーティブルが195万円、クーペでも185万円というとてつもなく高価なものとなった。当時の大学卒業者の初任給のほぼ100倍に近い。
 1962年から1964年までに造られたスカイラインスポーツの数は、約60台(内、コンバーチブル25台)と伝えられる。計画では、250台を限定生産(?)するはずだった。けれどもほとんどが手作業による製作であってみれば、その高価なことや台数の少ない事も納得できよう。何よりも、スカイラインスポーツのようなクルマを受け入れるグランドは、当時の日本にはまるで存在しなかったのだから。
 しかし、スカイラインスポーツが果たした役割は、プリンス自動車のイメージを一気に高めることになった。
  また、国産車の中に、イタリアデザインに対する理解を深めたという点でも注目して良いだろう。